いつかパラソルの下で

静かに、穏やかに、何者かに

これまでのこと

 

かなりの昔から、自分にとって世の中の多数派は常に憧れであり、追いかけなければならない存在だった。

 

その"ある種の"コンプレックスはあらゆる場面で遠慮もなく顔を出し、時には自分の意志とは別の方向に物事を持っていく恐ろしさを孕んでいた。
それと同時にそれは結果論として自分の将来を惑わせないだろうという、安心感や甘えがあり、またどこか諦めがあったのも事実だ。
 
 
端的に言えば、私の人生での決断は"やりがい"や"関心"ではなく、"多数派に賛成を得られるかどうか"によって行われてきたといえる。
これはその時々のみならず、永く私を苛み続ける根が深い病巣でもあった。
 
 
・・・
高校3年生時点の私にはどうしても行ってみたい大学があった。
当時の学力をもってしても、入学は安易であり入ることそのものに無理はないはずだったが、ただその大学は圧倒的に知名度が無かった。
知名度が無い、そうなればその後の進路も察しがつくが、その大学は言うなればそういう大学(あけすけに言えばFランに近かった)であり、それゆえにそのモラトリアム感が当時の私には眩しく見えた。
 
どうしても行きたかった。
だがそれは結局誰にも言えなかった。
じっとパンフレットを見つめることしか出来なかった。親は、先生は、そして周りはどう思うか。それを考えればそんな"気の迷い"を表面に出すのは間違っている気がしたのだ。
 
結局、1年の浪人生活を経て少なくとも有名ではある大学に入ることを許された。その浪人生活では勉強をした、というより特定の科目で点数を取るための効率だけを磨きに磨いた。
それは後々まで引っ張ることになる狡猾さを育てる時間でもあったし、この目的も目標もない決断はその後の人生をも宙に浮かせることになる。が、当然そんなことに気がつくよしはなかった。
 
・・・
就職活動は思いの外早くに始まった。
大学入試は偏差値が圧倒的にものをいい、受かる受からないは自身の努力や能力に帰依するところでしかなかったが、就職活動はほとんどノーガードに近い殴り合いの世界だった。
私の大学の同級生だけで6,000人もいた。
その市場では大学の名前はなんの武器にもならなかったし、一方の私には大した経験がなかった。
海外留学、インターン、サークル…そう言う輝かしいものは何一つ持ち合わせていなかった。
少なくとも経験値においては6,000人の中で下から数えるほうが早かったと思うし、それはきっとまぎれも無い事実だろう。
学力もそうだ。GPAは地を這い、卒業すらやっとの事であった。
 
それにも関わらず、私は身の程をわきまえなかった。
聞けば誰もが知る企業にしか興味が無かった。
いや、興味がないわけでは無かったが大学受験と同じ自分が顔を出したのだ。
そういう意味で就職活動はより残酷だった、大学の名前のおかげで少なくとも書類は通るのだ。
そうなれば面接に呼ばれるし、面接ではこれまで磨いてきた狡猾さが爆発的に威力を発揮した。
 
狡猾さ、それは単純に"口のうまさ"だった。
何だそんなことかと言われるとそれまでだが、これは圧倒的に経験値で劣る自分を補って余りある力になった。
要はドーピングみたいなものだ。中身が無いものをよく見せようとしていたのだから、高島屋のバラの包装紙に包まれた安い洗剤のギフトと同じだった。
言うまでもないが、そんな中身はディスカウントストアの包装紙で充分である。
 
結果として、それは見抜かれたり見抜かれなかったりした。掴んだ内定先に満足は出来なかったが、満足出来ないからといって留年するわけにもいかない。
そもそも浪人をして周りより出遅れているし、何より金が無かった。
結果として、また知名度だけで就職先を選んだ。
それは、これまでで最も辛辣な失敗として自身を苛んだ。
 
続く